WISH TO USE JAPANESE LANGUAGE SO BEAUTIFULLY
伝えたい、でもうまく伝わらない。
どこか少しだけ、何かが違うのかもしれません。
けれど、わずかな工夫によって、相手の受け止める印象はきっと変えられます。
まずは「てにをは」から始め、次に極める。可能ならば、多用してみる。
方言も日本語の美しさ。故郷も日本語で迎えてくれる。
日本のまち、日本のことば。伝わる喜び、伝わる心。
こんなに難しい、日本語の現実。
豊かな表現で、自由なコミュニケーションを叶えてくれる。
行間のニュアンスすら、立派に表現してくれる。
学んだのに、使いこなせていないとしたら、本当に勿体ない気がします。
命あるかぎり、その瞬間まで。
ありがとう、は万能表現。心を満たし、すべてを許す。
子供の言葉が荒れるのは、教えなくなった大人の責任。
純粋な眼をした子供が、透明感ある言葉で、美しさの何かを教えてくれる。
日本語で伝わる、あなたの人柄。
伝えよう、あなたの想い。
自筆で書かなくなり、久しい日々。
まだ10年くらいでしょうか。
ペンを持つ手が忘れると、記憶から文字というイメージが、少しずつ消えていきます。
自分の名前ですら、時にぎこちなさが。
あの言葉、どんな漢字だったかとふと悩み、スマホ変換の同音異義語に気づかず、苦い思いをした新入社員はきっと数知れず。
そう、誤った変換候補は、無表情にいつも最初に現れるのです。今日もまたか、と。
書かないことは、いつか忘れること。自分で書く、という当たり前のことが、ずいぶん遠くなりました。
無粋なお役所書類と格闘するときになって、書くぎこちなさを、ようやく思い出させてくれます。
かつては、プラスチックキーの刻印を必死で探していたものが、今ではタップにフリックと、入力の手段すらずいぶん時代を変えました。
タッチ入力の最大の欠点、ブラインドタッチがどうにも困難なこと。
誤字などやらかしても、即座に気がつきません。
読み直し。そしていつもの日常。
手書きの頃は、仕事の文書でも履歴書も、さらにはラブレターですら、筆を進めるごとに緊張が漂いました。
誤りに気づこうものなら、それまでの文字数にかけた労力と緊張感が一瞬で失せ、大きく深いため息が漏れた経験は、遠い昔の記憶かもしれません。
いまは、入力と変換の繰り返し。Deleteキーの多用。
思考の表現をキータイプに置き換えてしまった時点で、「文字は心を表す」からは遠ざかりました。
単調な作業の一部となった時点で、指先が覚えていた「誤字回避のセンサー」すら、姿を隠しました。
社会にあふれる間違いに誰かが気づいていても、誤りを伝える者がいなければ、次もまた同じ誤りが繰り返されるかもしれません。
新たな発見へ。信念とともに。危機管理とはそういうものだ、と。